石田まさひろ政策研究会

 

[参議院議員 石田まさひろメールマガジン]Vol.5-115(2017年08月24発行)

今日は私の所属する沖縄北方問題特別委員会に関わる戦時中の話題を。

玉音放送から3日後の1945月8月18日、武装解除を進めていた日本軍に対しソ連軍が突如猛烈な砲撃とともに奇襲上陸を開始。解除終了までの自衛目的の武器使用は認められていたため、非戦闘員を避難させるために日本軍は自衛戦闘を行いました。
この戦闘は厳しく死傷者は日本軍600人、ソ連軍3000人とも言われています。

この出来事は、千島列島の一番北端、カムチャッカ半島のすぐそばの「占守島」で行われました。

ヤルタ会談での秘密協定で千島列島を米・英が、ソ連に引き渡すことになっていたのですが、これに疑問を持っていたソ連が武力により千島列島を武装支配し、千島占領を確実にした上で北海道まで一気に進行し北海道の東半分を統治するという意図があったようです。

しかし、その初っ端である占守島で、日本の思わぬ反撃にあい、この意図はくじかれました。北海道の今の姿はこの戦闘によって守られたのかもしれません。

結局、8月21日、自衛のための武器使用権限も切れたため、有利に行っていた戦闘を日本から停止し武装解除することで戦闘は終結しました。兵士たちはその後、シベリアで強制労働に連行され、多くが亡くなりました。

兵士たちは、8月15日の玉音放送により、戦争が終わりこれで日本に戻れると思い、ほっと息をつきました。しかし、その3日後に再び戦闘に戻されました。激戦を経て21日に武装解除が決まり、再び日本に戻ることに思いを馳せましたが、逆にシベリアに連行され生死をかけた厳しい日々を送ることになりました。

8月15日が終戦の日とされていますが、その後の占守島の戦いがあまり知られていないのが残念です。私も不肖ながら沖縄北方問題特別委員会に所属し、北方領土の歴史を調査していた時に初めて知りました。

歴史に十分に刻まれていない人々の思いがまだあるのだと思います。
もっと深く知っていかねばなりません。ご冥福をお祈り申し上げます。

☆★==陽当たり良好通信====

皆さま、こんにちは。事務所の五反分です。

学生時代、私は鹿児島県の財団法人の学生寮に住んでいました。今は公益財団法人となったその団体は、昔は島津奨学資金といって設立は明治32年に遡ります。「同学舎」と名付けられたその寮には1学年5~6名の寮生が入寮し、様々な大学に通いながら同じ釜の飯を食い青春の一時期を共に過ごすのです。そんな生活が明治から続いているわけです(学生時代もっとまじめに勉強しておけばよかった・・・)。

その懐かしい寮から、「同学舎創立百十周年記念 舎友名簿」が送られてきました。8月15日のことです。その名簿は厚さにして1.5㎝ほどもあり、歴史の重みを感じます。

何気なくページを繰ってOBの消息に目をやり、まず目に飛び込んできたのは「勤務先」欄に記された「戦死(フィリピン)」という文字でした。8月15日に届いた名簿で最初に目にした消息が「戦死」だったことにしばし呆然としてしまいました。

「出身校」は「東大・経」とあります。その先輩の入寮年は昭和17年でした。終戦は昭和20年ですから、その人は二十歳前後で、異国の地において亡くなったことになります。故郷・鹿児島から志を立てて東大に入学し、同学舎で仲間と出会ったのも束の間、若くして学徒出陣に取られたのでしょう。見るとその学年にもう一人「戦死(フィリピン)」と記載されている人がいました。
二人は同じ軍用船で南方に向かったのでしょうか。何を思い戦地で銃を握ったのでしょうか。今となってはその大先輩に聞くことはできません。名簿には名前と「戦死(フィリピン)」の文字以外、空白があるばかりです。

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