石田まさひろ政策研究会

 

[参議院議員 石田まさひろメールマガジン]Vol.11-240(2023年8月17日発行)

[参議院議員 石田まさひろメールマガジン]Vol.11-240(2023年8月17日発行)

 

 

台風6号、7号の影響により、各地で大きな被害が生じました。被害に遭われました皆様に心よりお見舞いを申し上げます。

引き続き、発達した雨雲による激しい雨や、土砂災害の注意報が出ている地域もありますので、十分にお気をつけください。

 

昭和20年8月15日正午、昭和天皇による玉音放送をもって、ポツダム宣言の受諾を全国民と全軍に表明し、戦闘行為が停止されました。しかし、その3日後の8月18日午前2時すぎ、千島列島の一番北にある占守(しゅむしゅ)島へ、ソ連軍が千島列島と北海道の北東半分を占領することを目的に侵攻してきました。

 

当時、占守島には陸軍守備隊が残っており、陸軍守備隊は玉音放送を受け武装解除を始めていましたが、島で働く日魯漁業の女子工員約400人を避難させるため、改めてソ連軍と戦う決断をします。陸軍守備隊は3日間の戦闘を優勢に展開し、8月21日に停戦を迎え、結果として、この戦闘がソ連の北海道への侵攻を防ぐことになります。停戦後、捕虜となった日本兵はシベリアに抑留されてしまいますが、女子工員たちは無事に避難することができました。死傷者は日本軍約600人、ソ連軍約3,000人との説もあります(詳細は不明であり、日本人の遺骨もまだ僅かしか収集されていません。直近では令和元年に7柱ご帰還されています)。

 

恥ずかしながら、私は参議院議員になって初めて占守島について知りました。その意義の重要さを感じ、資料を読み、占守島で停戦交渉にあたった長島大尉に話を伺う約束をしましたが、天寿を全うされ、わずかのところで叶いませんでした。それ以来ずっと、遺骨や遺品の収集、慰霊、鎮魂が進むため、そして占守島であったことを多くの人に知ってもらえるための活動をしています。

 

今はできない状況ですが、数年前までの北方領土交流事業で、択捉島、国後島を訪問しました。そこで出会った人は皆、占守島のことや、そこでの戦闘の意味を知っています。それだけ重要なのです。しかし、まだ多くの日本人が島の名前すら知りません。ぜひ「占守島」と検索してみてください。

 

まだ知られていない多くのことを含め、多くの先人たちの行動と犠牲があって、今の日本があることが見えてきます。

 

 

☆★==陽当たり良好通信====

 

 

皆さまこんにちは。事務所の五反分です。

 

お盆の入りの日、母親と父を迎えにお墓に行きました。道々、戦中・戦後の話になりました。

 

母の住む大隅半島の山村は「ド」がつくほどの田舎だったので爆撃を逃れましたが、近隣の鹿屋市には海軍航空基地があったため、B-29爆撃機が編隊を組んで飛来していました。5歳児だった母はそれがもの珍しく、防空壕に逃げ込む大人たちをよそに空を仰いでいたそうです。すると母の母から「早よ来んか!」と頬っぺたをつねられ、無理やり防空壕に入れられていたのだとか。惨禍の下での「忙中閑」あるような昔語りに、殺戮と日常が混在する戦争のどす黒さを生々しく感じました。鹿屋基地は最も多くの特攻兵を送り出した特攻基地です。

 

戦後、田舎の農家には着物を持って食べ物と交換してほしいという人たちが町場からやってきました。村長だった母の父は着物を受け取らずに「カライモ」を渡していたそうです。カライモとは薩摩芋のことです。「ある時、カライモを畑から盗んだ人がいたんだよ。捕まって一軒一軒謝りに連れまわされてた、腰に芋のツルを巻かれて引っ張られて。あれはかわいそうだったよ。おじいさんは『そんなひどいことをするものじゃない』といって村人を諫めていた」「米も芋も役場に供出していたから、農家なのにいつもお腹が空いていたよ。あの食べ物はどこに行ってしまったのかな?」辛い出来事は山ほどあったに違いありません。

 

「お盆になるとテレビで戦争の番組をやるでしょう。あれは見られない、思い出すから」ぽつりと言いました。

 

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