石田まさひろ政策研究会

 

水戸徳川家から学ぶ政治の在り方

私のところで主催している「わかしの会」

35歳以下の若者で、2か月に1回、講師から話を聞き意見交換をするというスタイルで、若者たちの成長の場づくりをしています。

20回目となる今回は、水戸徳川家15代目当主の徳川斉正さんをお招きし、「水戸徳川家を貫くもの」と題し、水戸徳川から見た江戸時代そして明治維新までの精神についてお話をいただきました。

貫くものは、水戸徳川初代藩主の頼房公が乳母から受けた影響から始まります。
乳母は後陽成天皇の女御の中和門院前子の女官。乳母から毎日聞かされる話によって「水戸家は徳川将軍家の親戚であり、将軍や幕府の家臣ではない」、「皇室こそ重要である」という“皇室こそ重要”という意識ができました。

それが2代目、あの有名な黄門さまである光圀公に伝わり「我ガ主君ハ天子也。今将軍ハ我ガ宗室也。宗室トハ親類頭也。アシク了簡仕、取違へ申マジキ」という言葉になりました。水戸徳川の主君は天皇であり、将軍ではないと明確に述べています。

その後代が続き、第7代 治紀公は「天子に御向ひ弓をひかせられなは、少しも将軍家にしたがひたてまつる事はせぬ心得なり」と、天皇家に弓を引くようなことをさせられるなら、将軍家に従うなといっています。

この精神が、徳川最後の将軍である水戸家出身の徳川慶喜公の大政奉還の際に発揮されます。慶喜公は大政奉還を無理やりさせられてのではなく、自らのそして先祖代々の意思で行ったのです。

「家康公は日本国のために幕府を開きて将軍職に就かれたるが、予は日本国のために幕府を葬るの任に当たるべしとの覚悟を定めたるなり」

これが慶喜公の思いです。

初代将軍と末代将軍は、とった行為は逆でも、思いは“日本国のため”と同じ。
今の政治もこうあらねばなりません。

ちなみに、この日は実は私にとっても結構重要でして…

家内の伝承によると、私は、400数十年前、関ケ原の合戦で、東の徳川家康と争った、西の石田三成の兄である石田正澄の子孫かもしれません(系図は失っています)。三成が敗れたとき、正澄は父らとともに守っていた佐和山城で自刃しました。

結果、この合戦を大きなきっかけにして、300年余りつづく徳川時代が生まれました。

家康のY遺伝子と三成のY遺伝子を次ぐもの同士が、若者の未来のために、日本の政治がどうあるべきか、一緒に考えた会合が20回目のわかしの会でした。

追記)
初代水戸徳川藩主の頼房公の乳母が使えていた中和門院前子は、実は三成が使えた豊臣秀吉の猶子です。歴史の巡り合わせがあるのかもしれませんね。

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